勝海舟 最期の告白

 江戸末期の武士、明治初期の政治家・勝海舟は、西洋兵法と蘭学を学んでおり、1853年にペリーが来航すると、海軍の必要性を説く。しかし、勝は、日本だけの海軍の創設を考えていたのではなかった。中国と朝鮮に海軍を創設するための協力を日本が担うという、遠大な構想を持っていた。日本は、中国と朝鮮から、文化をはじめ多大のものを受けてきたという強い思いが勝にはあったので、1894(明治27)年に、日清戦争が勃発した時も、兄弟喧嘩をしてどうすると、ただ一人、明治政府に抗議したのだ。「私は、人を殺すのが、大嫌いで、一人でも殺したものはないよ。みんな逃して、殺すべきものでも、マアマアと言って放って置いた。刀でも、ひどく丈夫に結わえて、決して抜けないようにしてあった。人に斬られても、こちらは斬らぬという覚悟だった」(『新訂海舟座談』)という勝は、幕末維新の時代、平和主義を貫いた唯一の武士だった。
 オランダは、プロテスタント教会の信仰が、国造りにも大きく影響している国家である。勝は誰よりも早く、蘭学によりキリスト教に触れたと考えられている。そして、海軍を始めるときにオランダから招かれた航海術の教官W.H.カッテンディーケから、勝はキリスト教について多くを学ぶ。「勝氏はオランダ語をよく理解し、性格も至って穏やかで明朗で親切でもあったから、私たち欧米人は非常に彼を信頼していた」とカッテンディーケは記している。江戸城無血開城を実現したのも、それぞれ聖書を読んでいた勝海舟と西郷隆盛の二人であり、当時の宣教師は、勝について、「彼はキリスト教徒ではなかったが、彼以上にナザレ人イエスの人格を備えた人を未だかつて見たことがない」と記している。
 そんな勝には、6人の青い目をした孫がいた。勝の息子・梅太郎が米国人女性クララ・ホイットニーと結婚していたのだった。勝はホイットニー家との交友により、やがてキリストを告白するようになる。
 明治新政府によって、商法講習所(一ツ橋大学の前身)の所長として迎えられたウィリアム・ホイットニーは、妻のアンナと長男ウィリス、長女クララ、そして次女の一家五人で来日する。ところが、教育論の違いなどからウィリアムは教師の職を追われ、来日早々、ホイットニー一家は窮地に追い詰められる。この時に、救いの手を差し伸べたのが勝海舟だった。ホイットニー家との交わりの中で、勝はキリストへの信仰を強められる。母アンナが天に召された時、娘クララは深く悲しむが、日記にこう記している。「どういうわけか安らぎのようなものを感じている。それは、私の大切な母が長い苛酷な肉体的苦しみからやっと逃れられたと感じるからである。悲しみが私を襲っても、母は、自分の愛する母親のもとに行き、親戚の人たちといっしょにいるのだと思えば、私は安心していられる。母は『神の館』で私を待っていてくださるだろうと思えば、心が安らぐ」と。それに対し勝は、「臨終の時にあのような静かな力をもち、あれほど子供たちによく本分を守らせているのは、信仰の力にちがいない」と語り、大阪基督教会の宮川牧師に、「宗教については、ホィットニー夫人の宗教以外のものはいやだ」と言っている。アンナはその生と死において、真の宗教とは如何なるものかを実証した。
 勝が70歳の時、長男・小鹿を脳卒中で若くして失う。悲嘆にくれている勝に、日本に伝道旅行に来た伝道者ジョージ・ニーダム師が面会した。勝氏は一時間以上、ニーダム師が語る福音の真理に耳を傾けた。ニーダム師は終わりに、少し躊躇しながら、勝に、ひざまずいて祈りたいかどうかと尋ねると、勝は、即座に同意した。祈りの言葉は、日本人牧師により、一行ずつ日本語に訳された。祈りを終え、彼らが立ち上がると、勝は、涙に濡れた目をして立っていた。そして、ニーダム師の手を握り締め、『人生で一番すばらしい恵みの時でした』と、低い静かな声で感謝を表した(エドワード・クラーク著『Katz Awa The Bismarck of Japan Story of a Noble Life』より)。勝海舟は、1899(明治32)年、赤坂氷川町の自宅で、77年の生涯を閉じる。海舟最期の日々のことで、クララは、海舟の回心の事実を手紙のなかで次のように報告している。「勝氏が亡くなる二週間ほど前だったと思います。兄のウィリスは、勝氏の口から、直接、『私はキリストを信じる』と、はっきりと聞いたと言います。それを知って、私の心は歓喜に満たされました。勝氏は神の国に近づいたのです。彼はお寺に葬られましたが、最後の日々は、もう仏教徒ではなかったのです」と。死期が迫った勝海舟は、深い信頼を寄せていたウィリス医師から、天国の希望を聞いたはずである。復活のキリストを受け入れることが、信仰の中心なのだ。  
御翼2011年7月号その4より

 
  
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